俺は長野市で生まれた。
進学のため18で上京し、6年かかって大学を卒業。雑誌編集の仕事に就き、月の半分以上を編集部の机に突っ伏して寝るような暮らしを10年以上続けて、ふと気がつけば46だ。
これはまったくもって大げさな言い回しでなく、振り返ればあっという間の出来事。四捨五入すれば50歳、いやはやなんとも、まったくもってその自覚はない。そうか、光陰矢のごとしというのはこういう意味だったのか。
一昨年末に長年務めたモーターサイクルマガジンの編集長を辞して文筆家を志した俺は、仕事柄年の内360日をジーンズとスニーカーで過ごしていることも含め、20代30代とほとんど変わらないつもりでいるのだけれど、それだけに46という数字に思いを巡らせると愕然とする自分がいる。こんな歳が現実として自分に訪れるとは、予想だにしなかった。片時も止まることない時の流れの、なんと無慈悲なことだろう。
18で東京暮らしを始めて四半世紀を越えた。つまり今や故郷長野で過ごした時間より、東京の方が長いことなる。
30代も終わりに近づいた頃、このことに気が付いて少なからず驚いた。24で働き始めて以来、押し寄せる仕事をなんとかこなすことだけに精一杯で、故郷なんて思い出しさえしなかった俺なのに。
故郷は遠くにありて。
この言葉の美しさに気づいたのは、40過ぎてからのことだ。
俺の両親は今、長野市内から野尻湖に抜ける北国街道沿いの、リンゴと桃の果樹園と田圃が広がる山間の小さな村落に暮らしている。季節毎に色を変える美しき景色の中で、元気な老人たちとともに、ゆっくりと老いてゆく父と母。
嗚呼いとおしき故郷よ。年食うことは、まんざら悪いことばかりではない。
俺はオートバイ乗りだ。
「何をしてもいいけどバイクだけは絶対にダメ」という母親をなんとか説き伏せて、ヤマハの原付きを手に入れたのが16のとき。東京に出てすぐに(両親には内緒で)中型免許を取得し、以来いつだって俺の暮らしはオートバイとともにある。
ハーレーダビッドソンを専門に扱う「ホットバイクジャパン」マガジンを創刊したのが1990年。以来編集長として雑誌を作りながら、オートバイで走り続けてきた。つまりオートバイに乗ることは俺にとって仕事でもあるわけで、もはや趣味とはちょっと言いづらい。
オートバイにはさまざまな楽しみがある。所有する楽しみ、走る楽しみ。パーツを交換してカスタムしたり、自分の手を汚してメンテナンスする楽しみ。その中で俺は、オートバイで旅することに熱中した。
20代後半から取材の名目で頻繁にアメリカを訪れるようになり、ロサンゼルスからフロリダ/ニューヨークへ2度の大陸横断を含む、たくさんの旅をした。
入国審査の長い行列の最後尾で緊張にヒザを震わせ、道端に落ちている石ころひとつさえアメリカの石ころで、清水の舞台から飛び降りる決意でモーテルのドアを押し開いた。目に入るあらゆる光景にいちいち感動しながら、地平線に向かって一直線に伸びるフリーウエイでスロットルを握り続けたあのころ。
同時に日本各地を走り続けた。北へ南へ、東へ西へ。北海道から屋久島、沖縄まで。そうして俺は少しずつ見知らぬ土地を旅することに慣れ、オートバイを離れて世界を旅するようにもなった。
オートバイによって、鍛えられた僕がいる。
知らない人と話すことが苦手な、シャイな青年時代を送った俺だった。どこかに行きたい、知らない土地を旅してみたい。そんな思いに背中を押されて旅に出た。
オートバイは、人と言葉を交わすことが不得手な旅人にとって、格好の相棒と言える。野営道具を積んで走りだせば、日々一回「ガソリン満タン」以外の言葉を発することなく走り続けることができるのだ。そうして俺は孤独な旅を重ね、世界のどんなへんぴな場所でも一人で旅立てる男になった。